決して好きとは言い難い遊郭にまで出向いて是非とも家臣に、と迎え入れた男に対して恋心を抱いていることに気付いたのは、何時のことだったか。
 それまで恋などひとつも知らず―― また、それを心配するねねに大して恋をする必要性が見出せないなどと言い放ち、その話題から遠ざかって過ごしてきた。
 実際、恋などというものに興味はなかった。あの人がどうのこうの、昨日までは普段と変わりなかったのに今日は冷たいだの、他に好きな女が出来たみたいだの、出来ればその女を縊り殺したいなどと―― たかが心の動きひとつで振り回され、物騒なことを口にする、恋に浮かされた女や男には辟易していた。
 くだらないものだと思っていたというのに、恋を知ってからはそのくだらないものを理解出来るようになった。たかが自分の心の動きひとつだというのに、振り回される。恋うる相手が他の女と話をしている姿を見ても苛立ちを覚えてしまい―― 自分は何て狭量な主なのだろうかと落ち込んだ。
 初めはどうして他の女と話している姿に苛立ちを覚えるのかと思っていたのだが、それが恋だと認識した途端、答えは出た。ただ単に嫉妬していたのである。
 しかし、三成が密かに恋しているだけであって、相手はそうではない。
 恋を伝えようにも主従の関係を結ぶ間柄で口にする言葉は命令にしかならず、また、恋を知らぬが故にどうするのかが見当も付かない三成は、恋うた男を気付かれないようにそっと視界に納めるので精一杯だった。
 他の女と話している姿を見るのは心苦しかったが、どうすることも出来ない。ただ見ているだけでも幸せだった三成は家臣である恋うた相手をそっと盗み見ては心が騒ぎ―― そのまま一年ほど過ごした。
 このままこの恋は成熟することなく終わるだろう。
 そう思っていた三成に、その日は突然訪れた。


 何時もの様に執務の補佐を完璧に成し遂げた男は自分の邸へ下がる直前、畏まった様子で平伏した。
 どうかしたのか、と努めて平静を装いながらもその胸中は不安に溢れていた。
 迎え入れてから、口調や態度はそれなりに丁寧なものの何処かくだけた様子の男が畏まった態度を取ることは殆どなく、真剣な面持ちから石田家から辞するのではないかと思ったのだ。
 そんなことになってしまったらどうしよう。確かに至らぬ主だが、今や半身とも思い―― 更には、密かに恋う相手に去られてしまっては上手く立ち行かなくなってしまうかもしれない。三成自身、後から考えれば自分でも驚くほど弱気になってしまったものだが、そのときは真剣に思ったのだ。
「―――― お慕い申しております」
 辞されてしまったらどうしよう。
 そればかりを考えていた三成の耳に飛び込んできた言葉は、予想だにしなかったものだった。
 まさか恋うた相手からそんな言葉が出るとは思ってもいなかった三成は、恋に煮詰まったが為に空耳でも聞こえたのだろうと一瞬のうちに判断した。
 しかし、恋という心の動きは凄まじいもので、空耳だと判断を下し一応の決着が―― 少なくとも三成の中では―― 付いた筈なのに、もしかして空耳ではなかったのかもしれないという気持ちが膨れ上がり、無意識のうちに言葉が零れ出た。
「……今、何と言った?」
 声は幸いにも掠れていなかった、ということにほっとした一瞬の後、三成は慌てて首を振った。
 無意識のうちになんてことを口にしてしまったのだろうか。しかも、それに対して声が掠れなかったこと、即ち動揺していることを気付かせる要因を作らなかったことに安堵するなどとは如何なものか。
「ち、ちが……っ! い、今のは聞き流せ!」
 恋というものは実に恐ろしい。
 もしかして、などという一縷の望みに無意識に縋ってしまうなどと愚かなことをしてしまった。左近はきっと呆れたことだろう。出来れば聞き流して欲しい、と願いを込めて口にした言葉は、哀しいほどに上擦っていた。
 言葉にした自分でも判るほど、怪しい。
 更に慌てたまま違う、と否定しても効果がないことは判っているのに、動揺したままでは上手く頭が回らないらしい。あわあわと同じ言葉を繰り返していると、平伏していた男が顔を上げ、そっと手を伸ばした。
(あ……っ)
 頬に触れられた男の手は、想像していたよりも大きく、硬かった。自分のものとは全く違うそれが両の頬を包むように触れた途端、胸が高鳴ったのを感じ、三成は慌てて恋うた男の名を呼んだ。
「さ、左近……っ」
「ほら、落ち着いてくださいよ。殿らしくないですよ? ま、そんなところもお可愛らしいですけどね」
「なっ、な……、何を!」
 可愛らしいと言われた瞬間、更に胸が高鳴った。目の前の男に聞こえてしまうのではないかと思うほど激しく脈打つ心の臓に落ち着くよう胸の裡で呟いても効果はなく、三成はどうしていいものか心底困り果てた。
「そんな風に表情を崩されると、愛らしさが増しますよ」
「お、お前……馬鹿じゃないのか!」
 愛らしい、などと。
 確かに、ねねや秀吉には何度も言われたことがあった。しかし、三成は自分自身を到底可愛らしいものとは思えなかった。ねねや秀吉は三成を実のこのように可愛がってくれたからこそ愛らしいなどと称すのであり、実際は幼き頃から共に過ごした正則や清正の言うように、可愛げのない性質だと認識している。
 だからこれはきっと、恋に慣れた男の戯言だろう。
 ―― そう判断を下しても、愛らしいと言われれば期待してしまうではないか。
「ええ、左近は馬鹿ですよ。この年になって、一回り以上年の離れたお方に懸想しているんですから」
「……え」
「まさかこの年になって色恋に本気になるとは思いませんでしたよ」
 その言葉と共に、頬に触れていた手が離れてゆく。去ってゆく温もりを名残惜しく思いながら、三成は男の言葉を待った。
「―――― 殿、お慕い申しております」
 再び告げられた言葉は、先程空耳だと判断したものと同じもので。
 ああ、あれは空耳ではなかったのだ。恋に煮詰まったが故に聞こえたものではなかったのだとほっと安堵すると同時に、思っても見なかった展開に三成は何と言うべきか咄嗟に判断することが出来なかった。
 どんな物事に対しても、慌てることなく冷静に判断を下せる。それが石田三成という人物ではなかっただろうか。
 だが、実際にはどうだ。初めての恋が成就しそうなこの瞬間、三成は落ち着いて判断を下すことが出来そうにもなかった。
 しかし、このままではいけない。
 何か応えを返さねば―― と慌ててもこんな事態を想定していなかったが為に案は浮かばず、三成はほとほと困り果てた故にゆっくりと口を開いた。
「……す、すまぬ」
 何も考えれないまま音にした言葉は、耳に届いた瞬間、拙いものだということが三成にも何となく判った。これでは、想いを伝えられたことを遠回しに断っているようではないか。
 千載一遇の機会を此処でうっかり逃してどうする。きっと後々物凄く後悔することになるだろう。それが判っているというのに、言葉が浮かばなかった。
「さ、さこん……っ」
 左近に勘違いされてしまったらどうしよう。折角好きだと伝えてくれたというのに、妙な言葉を返してしまった。このまま嫌われてしまったら本当にどうすればいいのだろう。
 しかし、こんな経験など今まで一切なかった三成には何をするべきか判らず、ただ目の前の男の様子を伺うことしか出来なかった。
「…………大丈夫ですよ」
「え?」
「殿がこういったことに疎いというのは、何となくですが判っておりましたから。ま、流石にすまぬとか言われた瞬間は断られたのかと思いましたがね」
「それは!」
「ええ、判っておりますよ。……そのお顔を見ていれば」
「か、お?」
「はい。可愛らしく、まるで熟れた果実のように赤く染まっております」
「……ッ!」
 言われた瞬間、三成は自分の頬を押さえた。冷たい手の平に伝わる熱は確かに熱くなっている。これではさぞかし真っ赤に染まっているだろう。こんなにも熱いというのに気付かないほど慌てていたのだろうか。それを思うと今にもこの場から逃げ出したくなった。失態である。
「いや、しかし……一年と少しの間、殿の傍に仕えておりましたが、殿は本当に愛らしい方ですな。普段はつんと澄ましているというのに、一度心を許した相手にはただただ可愛らしい姿をお見せになる。その落差に左近は見事撃ち抜かれましたよ」
「そ、それ以上言うな! 恥ずかしくて堪らぬ!」
 頬を押さえながらそう叫ぶと、左近は堪え切れぬとばかりに口元を押さえた。肩も微かに震えている。笑っているということが容易に窺い知れたが―― それを阻む気は沸いてこなかった。
 その代わり、先程まで不安に思っていたことを思い出す。左近は大丈夫だと言ってくれたが、それは真実なのだろうか。左近は大人だから、何てことのないふりをしているだけではないだろうか。本当に、こちらの気持ちが判っているのだろうか。不安は次々と胸の中に満ちてくる。
 それに耐え切れず恐る恐る左近を見遣ると、黒い瞳と視線がかち合った。
「さ、左近…………あの、な」
「はい」
「その…………何だ」
「何でしょう?」
「……お前、判っていて惚けてないか?」
「さあ?」
 そんなわけないでしょう、と言いながらも、その声は何処か楽しそうだ。
 絶対に判っている。判っていて、三成に言わせようとしているのだ。何て性質(たち)が悪い。
 そう思うものの、このままだと落ち着かないことは確かだ。あやふやなものを好まず、何事も白黒はっきりつけたい性質の三成は、意を決して口を開いた。
「そ、その……左近は、俺のことをす、…………好き、だと言ってくれたな?」
「はい。そうです。もう一年近く前からお慕い申しております」
「そ、そうか……」
 一年近く前から。
 その言葉を聴いた瞬間、漸く落ち着きを取り戻した筈の心の臓が再び激しく音を立て始めたが、今はそんなことに構っている余裕など何処にもなかった。
 恋などというものに興味を持たずに過ごした所為で、それに対する知識も乏しい三成は、何と言うべきか知らない。しかし、今この瞬間に想いを伝えねばいけないと後悔してしまうということだけは判った。
「お、おれもな……そ、その…………っ、左近のことを、好いている」
 飾る言葉のひとつでも覚えておけば良かったと今更後悔しても遅い。風流なところがある男に対して、こんな風に直接的に想いを伝えても良かったのだろうか。そんな不安は、次の瞬間には消え去った。
「さ、さこん……っ?」
 にゅう、と伸びてきた男の腕に捕らえられ、気が付けば抱き締められていた。先程のように頬だけではなく、身体全体で感じる男の温もりが心地よい。
 左近が夜に遊郭に出かける度、誰か他の女を抱いていたのだと思うと胸が苦しくてどうしようもなかったものだが、いざ男の腕に抱かれるとそんな気持ちなど何処かへ吹き飛んでしまった。
「嬉しいですよ、殿」
 耳元で囁かれた言葉は、今まで聞いたものとは比べられないほど甘やかで。
 漸く想いを通わせた喜びに突き動かされるかのように、三成は男の背におずおずと腕を回した。


 想いを通わせてからと言うもの、三成は非常に幸せだった。
 それまで想ってくれる筈もないと思っていた相手から告白され、世間一般で言う恋人同志という間柄になった。
 とは言っても主従関係であることには変わらず、日常は然程変化をしなかった。ただ、ふとしたときに絡み合う視線が、触れた指先が、今までとは違うことを如実に表していた。
(左近……)
 ただ、恋が齎す熱に浮かれていたのは、初めの十日ほどの間だった。
 それまでは指先が触れ合うだけ、視線が交わるだけ、誰もいない部屋で抱き締められるだけ―― そんな些細な接触で満足していたのだが、人の心というものは一度満足すればその上を求めてしまうらしい。
(おれは、どうして……)
 ぎゅっと、無意識のうちに襟元を掴む。
 左近とはまだ、口付けのひとつも交わしていない。その理由は、三成にあった。
 恋など知らなかった三成は、当然の如く恋仲になった男女がするべき行為をよく理解してはいない。下卑た話題を好む輩のおかげである程度は知っているのだが、知識が乏しいことには間違いないだろう。
 左近は優しい男だ。何も知らないも同然な三成を怖がらせないよう、注意を払っているのだ。抱き締められるだけで一瞬身を強張らせてしまうことに対しても、嫌なら突き放してくれていいんですよ、などと言う。
「そんなこと、出来るわけないだろう……」
「何がです?」
 何時の間にか、障子を開けて左近が入ってきていたらしい。男の傍には熱い茶が入った湯のみがあり、おそらくそれを持ってきてくれたのだろう。何時ものことだからきっと一度断りの言葉を述べてから入ってきたのだろうが、それにも気付かないほど自らの考えの中に沈んでいたのだろうか。
「べ、別に何でもないっ」
 ぷい、と視線を逸らしてから、しまった、と思った。
 可愛い、愛らしいなどと言ってくれる男の前では少しでも素直でいたいのに、またもや可愛げのない行動を取ってしまった。
 このままでは何時か愛想を尽かされるのではないだろうか。恋の熱が落ち着いてきてから三成が真っ先に危ぶんだのが、それだった。
 左近に厭われてしまっては哀しいどころの問題ではない。おそらく立ち直ることなど出来ないだろう。恋を知ったおかげで、弱くなってしまったような気がする。
「との、とーの。そんなに落ち込まないでくださいよ。左近まで哀しくなっちまいますって」
「す、すまない」
「謝らなくても構いませんよ」
 その言葉が耳に届いたと同時に、身体が浮く感覚がした。驚き視線を巡らせると、先程まで目の前にあった男の姿が消えていた。それだけではなく、座布団の上に正座をしていた筈なのに、今は硬い感触が足のみならず腰の辺りまで触れているような気がする。
 これは一体何なのだろう。
 首を傾げたところで、面白そうな笑い声が背後から届き―― それで漸く、今の状況を悟った。
「さ、さこん! 何を……っ」
 まるで幼子のように、男の足の上に座らされている。ちょうど、胡坐をかいたときに出来るやや凹んだ部分にすっぽりと収まっているような感じだ。こんな経験は実の父親や兄相手にもなく、三成はうろたえた。
「何をって……たまにはこういうのもいいでしょう? これ以上のことは決してしませんから、安心してください」
 優しげな声で言われてしまうと、逆らうことなど出来そうにもない。自然と入っていた身体の力を抜き、背後の男に自重を預けると、後ろから腹の前辺りに男の手が伸びてきた。
 しかしそれは決して不埒な動きをするものではなく、左近の言葉が真実であることにほっとすると同時に―― 少し、残念に思った。
(おれは別に、構わないのに)
 そんなにも気を使わなくても、左近の望むままに求めてくれれば応じることが出来るのに、左近は決して無理強いをしようとはしない。それは三成を大切に想うが故の行動なのだ。それくらいは判っている。
 判っているのだが―― 抱き締められることに身体を硬くする癖に、更なる触れ合いをよく知らぬまま望んでいる現状においては、少しばかり辛いものがあった。
「…………左近」
 名前を呼びながら身体を捩って後ろを向くと、優しい色を宿した黒い目に見つめられる。それだけでも、確かに嬉しいのだ。ある程度の満足は得られるというのに―― 人の心というものは貪欲にも、今まで以上のものを求めてしまう。それが、苦しい。
(恋というものは、想いを通わせた後も苦しいものなのか)
 このむず痒いような何とも言えない想いは、どうすれば消えてくれるのだろう。
 どうかしましたか、と優しげな瞳にやや心配そうな陰を宿した男に対して首を横に振って答えつつも、三成は小さく、それこそ背後の男にも気付かれないようなささやかな溜息をひとつ、零した。